現代文の相対主義は超えられるか

 今年の夏、予備校のセミナーに参加した。
 非常に刺激を受け、もっと文章を読み解く力をつけなければいけないと痛感した。
是非このブログにも記しておきたいと思っていたが、新たに文章を起こす余裕はないので、学校に提出した報告書を以てそれに代えたい。

■講座名:『入試現代文 解釈・解答の相対主義は越えられるか』

■講座の概要
 (唯一絶対の解答がないという意味での)現代文の相対主義には多くの国語科教員が悩まされるところであるが、その解決は可能なのだろうか。
 講師である内野博之氏は、相対主義が生まれるのは現代文を「解法」で解こうとするからだと言う。現代文には数学の公式のような絶対的な「解き方」などないのにそれを求めるから、個人差が出てしまう。現代文にあるのは「読み方」だけである。課題文の内容(筆者の主張)を正確に読むことができれば、問いはすべてその内容(主張)と関連しているのだから、ひとつの正解以外はあり得ない。正解がいくつかあるというのは、裏を返せば、それぞれの解答者が正しく読めていない、ということに他ならない。
 以上のことを、東京大学の過去問と複数の解答例(予備校・出版社)を用いて説明した。(相当数が誤答と評されていた。)

■感想及び反省等
「国語教師として我々が生徒に教えたいのは何なのか。単に「機械的に問いを解ける」ようにすることか。そうではない。きちんと文章を読めるようにすることだ。だから解き方を教えるのではなく、読み方を教えなくてはいけない」という講師の考え方に共感を覚えた。
 ただ、全体を読み取ることができない生徒に少しでも点を取らせるためには解き方の指導もせざるを得ない現実もあるので、(この講師の考えは)トップの進学校を除いては「理想論」と評されるかもしれない。
 現代文の授業の原点について考えさせられたが、授業に生かすことは難しい。

 (2006/08/29)

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クジラの生き方

 現代文の授業。
 1年生の最初の教材は「あのクジラのこと」(著者:池澤夏樹)を選んだ。(ちなみに教科書は大修館書店「国語総合」)

 池澤夏樹の父親は福永武彦だったはず。
 その福永武彦は私が大学の卒業論文に選んだ小説家である。
 だからどうだということもないのだが……。

 この随想、最初の1行がものすごく上手い。

クジラに知り合いがいるというのは、ちょっと嬉しいものだ。

 この書き出しを読んだとき、「やられた」と感じた。
 「えっ、クジラの知り合いってどういうこと?」と絶対に次を読みたくなる。見事に読者を作品に引き込んでしまうわけだ。
 多少文章を書く者として(と言ってもこのブログぐらいだが)嫉妬さえ感じてしまう表現である。

 内容は、人間もクジラの生き方に学ぼうではないか、というもの。
 クジラの生き方……得られたものを喜び、明日を思わず、今日一日を満ち足りたものとして過ごし、生きることは喜びであると肯定する、そんな生き方。

 生徒たちの初発の感想を読んだところ、すっかり感化されてしまっているようで、「賛成!」的な感想ばかりだった。
 が、果たして人間にクジラの生き方が可能だろうか。
 「明日を思わず、今日一日を満ち足りたものとして過ごす」すなわち今日を「目的」とするのがクジラなら、「明日のために今日努力する」すなわち今日を「明日のための手段」にするのが人間。
 クジラ的生き方は一見幸せそうだが、今日に満足してしまえば進歩はない。進歩する喜び、というのものもあるはずだが、それを味わうことはできない。
 結局どちらが幸せなんてことは言えないのだ。

 ただ言えることがあるとすれば。
 「人間」と、クジラに代表される「自然」との隔たりはあまりに大きい、ということではないだろうか。
 もはや歩み寄れないほどに……。

 (2006/05/08)

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