1月に読んだ本

■『ラッシュライフ』(伊坂幸太郎)
■『チルドレン』(伊坂幸太郎)
連続して伊坂幸太郎を読んだが、これは年末に読んだ『死神の精度』が非常に良かったため(つまり3冊連続で伊坂幸太郎の作品を読んでいる)。これと比べると上記の2冊は見劣りする。

以下『ラッシュライフ』からいくつか引用。

「君が卒業間近に言った言葉を思い出したよ」佐々岡は声を高くして、言った。「『オリジナルな生き方なんてできるわけがない』私にそう言った」
「そうだったか?」
「世の中にはルートばかりが溢れている、とね。そう言ったよ。人生という道には、標識と地図ばかりがあるのだ、と。道をはずれるための道まである。森に入っても標識は立っている。自分を見詰め直すために旅に出るのであれば、そのための本だってある。浮浪者になるためのルートだって用意されている」

「人生に抵抗するのはやめた。世の中には大きな流れがあって、それに逆らっても結局のところ押し流されてしまうものなんだ。巨大な力で生かされていることを理解すれば怖いものなどない。逃げることも必要ない。俺たちは自分の意志と選択で生きていると思っていても、実際は『生かされている』んだ。」

金や地位を重んじる現実的な女は、人を信頼して裏切られる真面目な男よりは、よほどしっかりしているはずだ。地面の上に立っているかどうかも疑わしい男よりも、履いている靴がどこのブランドであるかを気にするOLのほうが、よほど頑丈だ。

「行き詰まっているとおまえが思い込んでいただけだよ。人ってのはみんなそうだな。例えば、砂漠に白線を引いて、その上を一歩も踏み外さないように怯えて歩いているだけなんだ。周りは砂漠だぜ、縦横無尽に歩けるのに、ラインを踏み外したら死んでしまうと勝手に思い込んでいる」

■『星々の舟』(村山由佳)
村山由佳の作品をちゃんと読むのは初めて。これまでは雑誌の数ページの連載小説を読んだりしただけ。
読み始めて最初に思ったのは「宮本輝に似ている」ということ。宮本輝は20年くらい読んでないのだが、どういうわけかそういう印象を覚えた。文章(の雰囲気)が似ているのか。
何にしても良い小説だった。1月にして「今年の一番」を手にしてしまったのかも知れない。今年これ以上の書物に出会えたら、それはとんでもない幸運と言っていいだろう。

■『悪の対話術』(福田和也)
ネットで高い評価を受けていたので何件も書店を回ってやっと手に入れたのだが、つまらない。途中放棄。

■『対話篇』(金城一紀)
「恋愛小説」「永遠の円環」「花」の微妙につながりのある3話が収められている。
20代で読めば、かなりお気に入りの1冊になり得ただろう。今の私にはちょっとばかし「軽い」。罪のない時間潰しには最適だったが。
「花」がよかった。国道1号線・2号線・3号線を走っての東京から鹿児島までのドライブは私もやってみたくなった。高速を行くよりずっと楽しそうだ。

その「花」より。

ある日、恵子さんが、うっかりしてお皿を割った。その五分後には口論が始まっていた。なぜそうなってしまったのか、ふたりには分からなかったけれど、ふたりは無意識に衝突を欲していたのだ。それがどこに行き着くものであれ、とにかく、きしんだ音を立てながら続く毎日に変化を臨んだのだ。

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生きることは愛すること

「100万年も しなない ねこが いました。
100万回も しんで、100万回も 生きたのです。」

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『100万回生きたねこ』(佐野洋子 作・絵)。

出版30年ということで、書店にコーナーが設けられていた。
これを機にこの本を手にする人が増えることだろう。
手にするのは新しい読者ばかりではない。
昔読んで忘れていたのを改めて……という人も多いだろう。
私のように。

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「あるとき、ねこは 小さな 女の子の ねこでした。ねこは、子どもなんか だいきらいでした。」

同様に、ねこは、あるときは王さまに、またあるときは船のりに……多くの飼い主に愛されるが、どの飼い主のことも「だいきらい」だった。
ねこが好きだったのは自分だけ。

そんなねこは、あるとき「白い うつくしい ねこ」に出会う。

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その白いねこを愛し、子どもたちにも恵まれたねこは、やがて訪れた白いねこの死に号泣する。
そして、白いねこの隣で動かなくなった「ねこは もう、けっして 生きかえりませんでした。」

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ねこはどうして生きかえらなかったのだろう。

その答えは、それまでの「100万回の生」と「最後の生」はどこが違うのかを考えることでわかる。

「100万回の生」でねこは愛されても愛することはなかった。
「最後の生」でねこは白いねこを(そして子どもたちを)愛した。

「愛する」という行為の有無、これが決定的な違いだ。

そして、死ぬためには生きなければいけない。
「100万回の生」をねこは生きていなかった。だから死ねなかった。

だが、「愛する」ことを知った「最後の生」だけは、ねこは生きた。生きたから死ぬことができた。

つまり、「生きるとは愛すること」「愛することは生きること」……それがこの絵本のテーマなのだと思う。

だから、愛することを教えてくれた大切な人にプレゼントしたら素敵なんじゃないかな、なんてことを考えたりする。相手がどんなふうに読み取ってくれるかはわからないが……。

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読書記録

■『模倣犯』(宮部みゆき)
夏休みだし、普段は読めない長編でも読んでみよう……そう思って手にしてみた。
第2部はちょっと退屈。
だが、第3部はおもしろかった。止めるに止められず夜中の3時くらいまで読んでしまった。徹夜するのはさすがにきついだろうと思ってそこで止めたのだが、独身で時間が自由になる頃だったら、最後まで一気に読んでしまったかも知れない(おそらく6時くらいには読み終えただろう)。
途中で止められない……『パラサイト・イヴ』(瀬名秀明)を読んだときもそうだった。アパートで一人布団に入って、真ん中くらいから最後まで一気に読んだ記憶がある。そんなことが出来たのだから、まだ独身だった頃なのだろう…。
読了まで15~20時間は費やしていると思うが、それだけの価値はあった。

■『兎の眼』(灰谷健次郎)
恥ずかしながら、初めて読んだ。
教員(特に小学校)には必読の書として紹介されているのを何度となく目にして、教員をやる以上は読まねばなるまいと考えていたのだが、読もうとして本屋を探すとちょうど置いてなかったりするなど、「縁がない」一冊であった。
確かに悪い話ではない。
ただ、「古い」と感じてしまった。
背景となる時代が、ではない。時代が変わっても人間の心はそう変わるものではないから。
私が「古い」と感じたのは、この本が出版されてからの30年間でこれを超える物語がいつくも出版されている、ということだ。より高い山を知ってしまったら、低い山が物足りなくなるようなもの。この程度の感動本はいくらでも転がっている。それが現代だ。

■『バッテリー』(あさのあつこ)
少年少女が主人公の物語には感情移入するのが難しくなってきた。
彼らが知り得ない感情を知りや持ち得ない体験を持った身としては、彼らが主人公の物語は物足りなさが残る。
それでもこの作品は結構気に入った。
主人公の少年が魅力的だから。決して「正しく」「真っ直ぐな」少年ではない。若者特有の生意気さが前面に出ていて、実生活ではあまり接したくないタイプだが、「若さ」「青さ」が感じられていい。
ただ、続編も刊行されているようだが、それまで読もうとは思わない。

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蛇行する知恵

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俵万智「トリアングル」を読んだ。

主人公の独身女性が、若い独身男性と年上の妻子ある男性との二つの恋愛を経験し、結局妻子ある男性の子供を産むことを決心する、という話である。
実際作者の俵万智自身がシングルマザーとなっており、どの程度「私小説」であるのかという興味を抱いたが、正直言ってそうたいした小説とは思えなかった。暇つぶしに読むなら悪くはないのだが、出会いに感謝したくなるほどの小説ではない。

だが、次の箇所は非常に印象に残った。この部分との出会いは感謝したいと思う。

 釧路川は、蛇行する川の代表選手。その姿を初めて写真で見たのは、たしか小学校の地理の教科書でだった。水でできた蛇が、巨大なS字をつなげたかっこうで、湿原を這っている。
「この蛇行に意味があるんです。一見、無駄な寄り道をしているようですが、とんでもない。蛇行のおかげで、湿原の隅々にまで、水が配られているんですから」
 湿原を研究して三十年という湿原博士は、力をこめて言う。
「人間がやってきたことは、A地点からB地点への最短距離を、直線で結ぶようなことばかりですな。自然は、蛇行するという知恵を持っています」

確かに人間がやってきたこと・目指したことは「最短距離を、直線で結ぶ」ことばかりだ。
目的達成のために、無駄(と思える)ことを排除し、合目的的であることを良しとしてきた。

その結果はどうなったか。

蛇行という「無駄」を排除して最短距離を求める社会は忙しくなるばかり。
忙しさは「心を亡くす」。他人を思いやる余裕はなくなり、他人の痛みに鈍感になる。
まだ社会に「蛇行」があった頃、人と人の間に存在していた「水」、人々の心の中にあった「水」は消えようとしている。
潤いのない社会が住みやすい場所であるはずがない。

それでも最短距離で進もうとしている目的地が「幸せな社会」であると信じられるならまだいいのかも知れない。
だが、目的地が「金儲け」であったことはもはや誰の目にも明らかだ。
金儲けと幸せは違う。
儲けた金をいくら使っても失われた「水」を買うことはできまい。

「心の水」はもう戻らない。
それと引き換えに「直線の社会」は一体何を生み出したのだろうか。

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差別、あるいは人間らしさ

東野圭吾『手紙』を読んだ。

兄が強盗殺人を犯したがゆえに不当な扱いを受け続ける直貴に、勤務先の社長が語る言葉……それがこの小説のすべてだろう。

「差別はね、当然なんだよ」平野社長は静かにいった。
 直貴は目を見張った。差別はしていないという意味のことをいわれると思ったからだ。
「当然……ですか」
「当然だよ」社長はいった。「大抵の人間は、犯罪からは遠いところに身を置いておきたいものだ。犯罪者、特に強盗殺人などという凶悪犯罪を犯した人間とは、間接的にせよ関わり合いにはなりたくないものだ。ちょっとした関係から、おかしなことに巻き込まれないともかぎらないからね。犯罪者やそれに近い人間を排除するというのは、しごくまっとうな行為なんだ。自己防衛本能とでもいえばいいかな」

犯罪者やある種の病気に対する差別……それはおそらく極めて「人間的」なことなのだと思う。
犯罪者や(感染性の)病人に対して、危害を加えられるかも知れない、病気が感染するかも知れない……そんな恐怖心を持ってしまうのは、人間として全く自然なことだと思うからだ。
それはまさに自己防衛本能。人類が生き残るために心の奥深くに植え付けられたプログラムなのであろうし、そのような心理があるからこそ人類は存続し得たのだろう。

もちろん道徳的には「差別」は間違いだ。否定されるべきものだ。

だが、それが(本能として人間に備わっているものという意味で)「人間的」なものだとすれば、「人間らしいあり方」とはいかなるものなのだろうか。

差別を肯定するつもりはない。
だが、それでもふと疑問に思ってしまうことがある。
本能を捨て去ってしまうこと。「道徳」というプログラムに忠実な生き物になること。いわば「ロボット」になること。
それが「人間らしいあり方」なのだろうか、と。

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「きみに読む物語」

「きみに読む物語」(ニコラス・スパークス 翻訳:雨沢泰)を読んだ。
アルツハイマーで自分が誰かさえわからなくなった女性に、ある男がひとつの恋愛話を話して聞かせる。実は、女性はその男の妻で、語られる話は、二人が出会い結婚するまでの事実であった……。
感動的な話だけど、翻訳がいまひとつ。こういうのを読むと、自分が翻訳したくなる。実際は、翻訳されたのをさらに自然な日本語に直すって作業になるのだろうが。
…と文句をつけてみたが、これは読んでよかった。映画にもなっているので、観てみたい。

以上のように書いたのが、2月上旬。
この記事をアップすることなく、そのまま放置してしまったのだが、3月上旬にDVDで見ることができた。その感想も書く。
青春時代の男主人公ノアが快活すぎないか、というのが気になった。小説では詩を愛する男として書かれているが、とてもそうは感じられない。だが、青春期特有のエネルギーや「はじける」感じがあって、小説以上に魅力的とも言える。
女主人公アリーと婚約者については(小説もだが)もう少し量的に多く描く必要がある。そうしないと、婚約者を捨ててノアを選ぶ際のアリーの苦悩が視聴者(読者)に伝わらない。ろくに描かれてもいないため、婚約が軽いものになってしまうから。婚約の「大きさ」「重さ」を描いて初めて、二人(ノアとアリー)の愛が、困難を乗り越えて成就した「物語」となり得るのである。
 
全体としては非常によかった。映画館に観に行っても「損した」とは思わなかっただろう。
ただ、小説と映画のどちらがよかったかを聞かれたら……やはり小説かな。原作を越える映画はなかなかないものだ。

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人生は宝探し

『水曜の朝、午前三時』(蓮見圭一)を読んだ。

弟が家に置いていったのを何気なく読み始めたのだが……止められなくなった。読んでいる最中の本もあったのだが、結局この本を一気に読んでしまった。
主人公の女性はある男性に激しい恋心を抱く。だが、その男性の「真実」を知り、その男性から逃げ出し、別の男と結婚する。が、幸せと言っていい結婚生活を送りながら、心の中ではあの男を思い続ける。「もし、あのとき、あの人との人生を選んでいたら…」。
そんな話だが、印象的な箇所が多数あった。中でも強く記憶に残っているのは「人生は宝探し」という言葉。その部分を引用する。

私は時間をかけて、どこかにあるはずの宝物を探し回っていたのです。ただ漫然と生きていては何も見つけることはできない。でも、耳を澄まし、目を見開いて注意深く進めば、きっと何かが見えてくるはずです。
 四十年以上の歳月をかけて、では私はどんな宝物を見つけたのでしょう? 訊ねられたとすれば、こう答えます。私は臼井さんを見つけ、夫やあなたを得た、と。その結果、途方もない感情の激しさを経験することができた、と。(略)人生は宝探しなのです。嫌でも歩き出さねばならないのだし、それなら最初から宝探しと割り切った方が楽しいに決まっているではないですか。

他人から見れば些細なものかも知れないが、私もいくつかの宝物を得てきた。まだ私の人生には宝物が残っているのだろうか。発見されるのを待っている宝物があるなら、見つけたい。それでこそ生きる意味もあると思えるから。
だが、宝物を見つけるには冒険も必要だろう。今までに得た宝物を手放して初めて手に入れられる宝物もあるのかも知れない。冒険する覚悟……ある程度の年齢になったら、「宝探し」できるかどうかを決めるのは結局それだろう。その覚悟がないなら、今まで手に入れたもので我慢するしかない。それらも間違いなく宝物なのだから。

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島本理生『ナラタージュ』を読んで

女性の書いた文章を読むのが好きだ。女性ってこんなふうに世界を見て感じているのかという発見があるから。
ものの見方だけではない。文章の「流れ」が違う。感受性や想像力が男とは根本から違うのだろう。男と女は全く別の生き物なのだな、と感じる時でもある。

男女の文章の違いって、たぶん想像力の違いなんだろうな、と思う。
例えば、A地点から対岸のB地点へ川を渡るとする。男なら飛ぶための石を5個川中に置くとして、女性は4個ですませてしまうのではないか……そんなふうに感じる。一つ一つの石の間隔が広いから、より遠く飛ばなくてはいけない。つまり、想像力を働かせなくてはならない。想像力が不足したり、使い方を間違えると、目的のB地点にはたどり着けない。男にとって女性の文章を読むのは、そんな不確実さ・不安定さを抱えながら読むことである。細心の注意を要求される疲れる作業でもある。そして、いくら心を砕いても途中で川に落ちてしまうことも多い。女心は難しい。

この『ナラタージュ』もまさに「女性の文章」であった。
登場人物、特に主人公の女子大生と葉山先生に魅力がない……理性的すぎてつまらない、もっと感情的というか「壊れた」感じがほしい……ため、小説としてそう高い評価を与えるつもりはない。
でも、「女性の文章」として、たいへん興味深く読めた。男なら見逃してしまう、指先などの身体のちょっとした動きにも心情を読み取っている。女性の繊細さを感じることのできる文章だった。特に、終わり近くのセックス描写は男には絶対書けないだろうな。

清も濁も、合理も不条理も併せ持つのが人間。であれば、この小説は人間が描けていないことになる。が、小説でくらい夢を見たい……そんな人には、そんな時には、お勧めの一冊である。

最後に、印象的な表現のある箇所を書き抜いておく。

     ***

「君にとっては皮肉なことかも知れないけれど」
 そう前振りをしてから、葉山先生はゆっくりとした口調で
「君をこれほど大事に思うようになってようやく、もう一度、妻を大切にできるんじゃないかと思ったんだ」
 良かったなあ、と思う自分が不思議だった。すでに焼けるように熱いまぶたの奥には涙が溜まっていて悲しくないと言えば嘘になるのに。それでも心の底から良かったと思った。

     ***

「君はいつもそうやって大丈夫じゃないのに大丈夫だって言うんだ」
 次の瞬間、葉山先生がベッドから身を乗り出して私の体を強く抱き寄せた。ほとんど触れたこともないのになぜか懐かしさを覚え、両腕を彼の背中に伸ばして、今、つかまなければすぐに去ってしまうものに必死で強く抱きついた。暖房のきいた病室で少し汗をかいた髪の匂いも痩せた首筋も厚い胸もすべてが狂おしいほど愛しくて頭の中が変になりそうだった。
「僕は君が好きだ」
 絞り出すような声で彼は言った。
「私も好きです。どうしようもないほど、あなたが好きです」
 今さらなにを言っているのだろう。もうずっと、私は胸の中でそう言い続けてきた。

     ***

 それでもカーテンの隙間からかすかに漏れてくる一筋の光はまぶしく、呼んでいるようだった。彼が暖房のスイッチを入れ、ボストンバッグから荷物を出してそれぞれの場所にしまい、洗濯機の中に汚れた物を投げ込んでいる間も、ただ一つの気配が私と彼との間に横たわって微動だにしなかった。私は部屋の真ん中に立ちつくしていた。

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最近読んだ本

どういうわけか読書欲が高揚してきて、普段の3倍くらいのペースで本を読んでいる。普段は月2、3冊だから、月10冊に近いペースだ。今月は10冊を越えたかもしれない。
本を読むのはもちろんよいこととして感じているから、困惑しているわけではないのだが、なぜ急に読書欲が高まったのかは自分でも不思議だ。

■『ノルウェイの森』(村上春樹)
読むのはもう何度目だろう。何回読んでも、素晴らしい小説だと思う。
初めて読んだときは「直子」の印象が強かったのだが、読み返すたびごとに次第に「緑」が魅力的に思えてくる。なぜだろう?

■『光の帝国』(恩田陸)
超能力(?)を持つ常野一族をめぐる十の物語からなる短編集。
ネットのレヴューの評価は高めだが、個人的には読むほどの価値はなかったな。

■『純愛時代』(大平健)
「純愛」というと、身体の関係のない精神的な恋愛を思い浮かべる年代(自分だけ?)なのだが、やはり時代は変わったようだ。恋愛にどこまで本気でのめり込むか……精神科医の患者の事例集だから、登場人物たちは皆精神を病んでしまうのだが……が「純愛」かどうかを決める。計算や抑制の働く恋愛は「純愛」ではない。肉体関係の有無は関係ない。
それにしても、単なる症例集にしか私には思えない。もっと分析があってもよかったのではないか。

■『きっこの日記』(きっこ)
数ヶ月前からブログを読み始めた。古い記事も読んでみたいと思っていたので購入した。
買って損したとは言わないが、わざわざ買わなくてもよかったかな。続編も出るようだが、もう買わない。ネットで読むだけで十分。

■『女たちのジハード』(篠田節子)
数名の独身女性の、恋愛、結婚、仕事、要するに人生を描いた物語。
個人的にはすごく好きな小説で、読み返すのは4回目くらいだろうか。女性ってこういう考え方、感じ方をするのかと「学習」しながら読んでしまうのだが、果たしてどの程度正確に「女性」を描いているのか不安になることもある。間違った女性観を植え付けられている可能性もあるから(笑)。

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『14歳からの哲学』を読んで

池田晶子『14歳からの哲学』を読んだ。

この人の著作はどうも文章のリズムが合わない。素直に言いたいことが頭に入って来ないのだ。「もっとわかりやすく書いてくれよ」と言いたくなる。もちろん、この文章で十分わかりやすいという読者もいるだろうし、そのような文体で書く必然性が筆者にはあるのだろうから、その要望は私の単なるわがままでしかないのだが。
 
それでも今回の『14歳からの哲学』は、対象が若年であるだけにかなり読みやすいほうだった。

中でも「15 友情と愛情」はなかなかよかった。

「本当の友情、本当の友だちこそがほしいのだけど、いない、と悩んでいる人が多いみたいだ。でも、いなければいないでいい、見つかるまでは一人でいいと、なぜ思えないのだろう。」
筆者はそう問いかける。
そして……一人でいることに耐えられないということは自分を愛することができないということだ。自分を愛することができない人に他人を愛することなどできるわけがない。自分を愛し、孤独を味わえる者同士が幸運にも出会うことができたなら、そこに生まれる友情こそが素晴らしいのだ……と論じていく。
確かに、人間は自分と釣り合いの取れる相手を選ぶ。自分を豊かにしなければ、良い友人などできるわけがない。納得。

ところで、先ほどの「いなければいないでいい、見つかるまでは一人でいいと、なぜ思えないのだろう」という問いかけは、友だちの場合以上に、恋人や結婚相手に関しても言えると思う。
恋愛至上主義とでも言うべき現代の風潮。その中では、恋人がいないことは罪悪にさえ思われる。昔ほど絶対的ではなくなったとは言え、結婚適齢期という縛りは(身体的にも)存在する。
そんな中で「(恋人が)いなければいないでいい、見つかるまでは一人でいい」と言い切ることは困難だろう。よほど「強い」人でなければ。
多くの人は弱い。いくら自己の信念とはいえ、流れに逆らって立ち続けるつらさより、流される気楽さを選択するだろう。

筆者の池田さん、「なぜ思えないのだろう」の答えは、人間は弱いから、ですよ。
人間は、「いなければいないでいい、見つかるまでは一人でいい」と思えるほど強くない。自信のなさから目をそらすための虚栄心や、それを満たすことで得られる自尊心に依って生きている弱い生き物なのです。

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