こんな現代っ子に だれがした

(「雨にもあてず」という結構有名なパロディがあるのは知っていた。特に検索したりすることもなかったが、先日たまたまネットで目にしたので、保存も兼ねて掲載する。)

「雨にもあてず」

雨にもあてず 風にもあてず
雪にも 夏の暑さにもあてず
ぶよぶよの体に だくさん着こみ
意欲もなく 体力もなく
いつもぶつぶつ 不満をいっている
毎日塾に追われ テレビに吸いついて 遊ばず
朝から あくびをし 集会があれば 貧血をおこし
あらゆることを 自分のためだけ考えてかえりみず
作業はぐずぐず 注意散漫すぐにあき そしてすぐ忘れ
りっぱな家の 自分の部屋にとじこもっていて
東に病人あれば 医者が悪いといい
西に疲れた母あれば 養老院に行けといい
南に死にそうな人あれば 寿命だといい
北にけんかや訴訟(裁判)があれば ながめてかかわらず
日照りのときは 冷房をつけ
みんなに 勉強勉強といわれ
叱られもせず こわいものもしらず
こんな現代っ子に だれがした

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「だれがした」の答えは当然「大人」だが、もっと具体的に言えば何だろう。
社会だろうか? 教育行政や学校だろうか?

私なら「親」と即答する。
自分の子供に責任を持たずして、どうして親と言えようか。

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欠如によって

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『人間は判断力の欠如によって結婚し、
 忍耐力の欠如によって離婚し、
 記憶力の欠如によって再婚する。』
(アルマン・サラクルー)

今年出会った一番の名言(迷言?)。
おもしろいよ、これは。

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学級通信第4号の詩

ガイハンボシって病気がある
足に合わないカワイイ靴、カッコイイ靴でなるらしい
自分をよく見せたいって気持ちが生み出す病気…
だとしたら
「心」のガイハンボシってのもあるのかな
見栄とか虚栄心って私にもあるけど
真っ直ぐな「心」の親指で真っ直ぐに歩いていきたいな
ところで、あなたは……

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自分にできること・自分の支え

私には一人分の力しかありませんが、一人分の力にはなれます。
私には全てのことは出来ませんが、何かをすることは出来ます。
全てのことが出来ないからといって、何かをすることまで止めてはいけません。

(エドワード・エベレット・へール)
 
 
 自分の力の微少さに悲しくなるときがある。
 でも、そんな自分でもできることは必ずある。
 それをやり遂げることが大事なのだ。

 それはあまりにもちっぽけだったり、時には見当違いだったりして、自己満足としか言えないものかもしれない。
 でも、その自己満足が唯一の支えになるときもある。ちっぽけな支えのおかげで倒れずに立っていられる。

 しかし、本当に弱くなったとき、倒れそうになるのを支えてくれるのは、そんな自己満足や自信や自負ではない。(そもそも自信をなくしたから倒れそうになるわけだし。)
 普段は鬱陶しくて仕方ない、自分を縛り付ける鎖、鎖、鎖…。案外そんなものが支えになったりする。

 逃れたくて仕方がない鎖たち。だが、そこから逃れて立っていられるほどの強さを人間は持っているものだろうか。

 (2006/11/28)

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今こそ読まれるべき詩

 私の前にある鍋とお釜と燃える火と
 
                      石垣りん

それはながい間
私たち女のまえに
いつも置かれてあつたもの、

自分の力にかなう
ほどよい大きさの鍋や
お米がぷつぷつとふくらんで
光り出すに都合のいい釜や
劫初からうけつがれた火のほてりの前には
母や、祖母や、またその母たちがいつも居た。

その人たちは
どれほどの愛や誠実の分量を
これらの器物にそそぎ入れたことだろう、
ある時はそれが赤いにんじんだつたり
くろい昆布だつたり
たたきつぶされた魚だつたり

台所では
いつも正確に朝昼晩への用意がなされ
用意のまえにはいつも幾たりかの
あたたかい膝や手が並んでいた。

ああその並ぶべきいくたりかの人がなくて
どうして女がいそいそと炊事など
繰り返せたろう?
それはたゆみないいつくしみ
無意識なまでに日常化した奉仕の姿。

炊事が奇しくも分けられた
女の役目であつたのは
不幸なこととは思われない、
そのために知識や、世間での地位が
たちおくれたとしても
おそくはない
私たちの前にあるものは
鍋とお釜と、燃える火と

それらなつかしい器物の前で
お芋や、肉を料理するように
深い思いをこめて
政治や経済や文学も勉強しよう、

それはおごりや栄達のためでなく
全部が
人間のために供せられるように
全部が愛情の対象あつて励むように。

     ■ ■ ■ ■ ■

 授業で唯一扱ったことのある石垣りんの詩である。
 もう10年以上も前のことになる。
 それ以降この詩を教科書で見かけたことはないが、まだ載せている教科書はあるのだろうか。それともなくなってしまったのか。

 なくなってしまっていたら残念だ。
 今こそ必要とされる詩だと思うから。

 男たちがやってきたこと…社会に出て働くこと…にばかり価値を与え、女たちがやってきたことに価値を認めなかった歴史。それが、少子化や幼児虐待などの社会問題を生み出したのではないか。育児の素晴らしさ、家事の重要性といったものを伝えてこなかった日本の過去。今の日本はその過去に復讐されているように感じる。
 女たちがやってきたことの価値を再確認すること、それが今の日本に、そして将来の日本のために最も必要なことではないか。
 だから、少しでも多くの高校生に読んでほしいと思うのだが。

 授業で扱ったとき生徒に書かせた感想が残っているので、ふたつほど紹介する。

「ずっと昔からなぜ炊事というのが女の役目だったのか、私は不思議でしょうがなかった。しかし、この詩を読んでわかった。それは家族への愛情があったからだ。母や祖母、そして私が同じ台所で料理をすることが、なぜか自然と嬉しくなってきた。私はこれでよかったと思う。」

「私の考えはこの詩とは全く違います。今まで女の人がけなげに炊事をしてきたのがなぜなのか、見当がつきません。私は何かを誰かの役目だと決めてしまうのは納得できません。何事であれ自分ができることをできる範囲ですればいいのです。女だから男だからというのは異性への差別であり、自分への甘えだと思います。」

 (2006/09/27)

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「知る」と「決断する」

私達は無知によって道に迷うことはない。自分が知っていると信ずることによって迷うのだ。
(ルソー)
 
 
 知識は基本的には人間を迷信や理由なき恐怖から解放するものなのだろうけれど。
 知識は時として人間を縛るものにもなる。
 無知であれば見えたものが、知っているが故に見えないということもある。
 素人が発見できることが、専門家にはわからないとか。知識がある故に「そんなことはあり得ない」とやる前から決めつけてしまう。

 「知る」こと、すなわち知識とは何なのか。

 少なくとも「決断」のための道具ではない。

 進路がなかなか決められない(3年生になっても)生徒がいる。
 彼らは決まって「情報の不足」を理由に挙げるけれど、「知る」ことと「決断する」ことは別物だということに気づいていない。
 その証拠に、先延ばしできない時期が来れば、新しい情報が何も入っていないとしても「決断」するのだから。

 「知る」ことがすべてを解決してくれる(進路だって決めてくれる)という考え方、いわば情報万能論は、やはり情報化社会の産物なのだろうか。「情報」も「知識」も使う人間があってのもの。手段に過ぎない。決断するのは人間以外にないし、情報が多ければ正しい決断ができるというものでもない。(それが正しい決断だったかどうかは、その後の努力で決まることが多いと思う。)

 「情報」や「知識」を求めるのは、結局、決断することの責任や考えることの大変さから楽になりたいからなのかもしれない。

 引用したルソーの言葉からはズレてしまったかもしれない。
 しかし、「よく知らないから(進路を)決められない」という生徒に対して、「知ることと決断することは別」「知ったがために余計迷うこともある」との思いを抱いていたので、この機会に書いてみた。

 (2006/06/17)

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モンゴルの諺

自分の容貌を知らない者は、鏡を悪く言う。自らの心を知らない者は、人を悪く言う。
(モンゴルの諺)
 
 
 他者の悪口を言う者は、(本人は優越を感じてるのだろうが)傍からみるとどっちもどっちと言うか、悪口の対象と同レベルにしか思えない。「あなた、自分の悪口言ってるんじゃないの?」と感じてしまう。
 そんなことは確かにある。

 他人は自分を映す鏡。

 他者が悪く見えるのは、実は自分が悪いから。
 自分の心が醜いから、相手も醜く見えてしまう。

 自分の不完全さを知る者は他人の不完全さを非難することはない。むしろ許そうとするだろう。

 でも……

 悪口を全く言わないセイジンクンシ様に魅力があるかというとまた別問題。

 人を悪く言っているつもりで、実は自分の悪口を言っている……そんな間抜けさこそが愛すべき点だったりする。
 「この鏡、ちゃんと映らないのよ!」なんて怒っている女性も可愛いものだ(よね?)

 (2006/06/09)

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向かい風

どの方向にスタートするかは問題ではない。どっちに行っても向かい風が吹いてくる。
(引用元不明)
 
 
 この言葉は内容以上に、レトリックとしても上等だと思う。
 無風であっても、自分が動けば、(空気の抵抗を感じるから)結果として向かい風が吹いているのと同じ、になる。言わば、向かい風は吹いてくるのではなく、自分が作り出すものなのだ。
 言うまでもなく、「向かい風」は周囲の反対や抵抗のこと。
 何かを始めようとすれば必ず向かい風が吹く。それまでの安定を保ち続けるために。

 何かを始める際には追い風を期待してはいけないし、向かい風の中を進む覚悟がないうちはスタートする資格がないってことだ。

 向かい風は自分で作り出すもの、追い風は周囲が作り出すもの……そんなことも言えるかもしれない。
 そして、「生きている」って感じるのは向かい風の中を歩いている(あるいは歩き抜いた)ときなのかもしれない。

 (2006/06/03)

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失ったものもあったかな

 前回の記事(「宝物あるいは幻想」)で、「宝物」と思い込んでいたものが実は「ガラクタ」だった、ということを書いた。
 そのことに関連して思い出す歌がある。いや、正確に言えば、書いている途中でその歌が思い浮かんだので、「宝物」「ガラクタ」という表現を使ったのだが。

 その歌は、浜崎あゆみの「TO BE」。

 好きな歌のひとつである。
 特に次の部分は素晴らしいと思う。初めて聴いたときも、そして未だに耳にするたびに、何か「切なさ」のようなものが胸に広がる。

   大きな何かを手に入れながら
   失ったものもあったかな
   今となってはもうわからないよね
   取り戻したところで
   きっと微妙に違っているハズで…

 時間を元に戻せない以上、失ったものを取り戻すことはできない。
 仮に同じものを手に入れることができたとしても……違って見えてしまう。
 自分、が変化してしまっているから。

 時間(の経過)とは変化である。
 その中で変わらずにいることはできない。

 (2006/05/18)

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人生は試行錯誤

人生そのものが試行錯誤の過程である。なんの過ちもおかさない人は、何もしない人たちである。
(アルフレッド・P・スローン)
 
 
 素直に頷ける。そして何か力づけられたような気になる。
 誰もが初めての人生を生きている。そんなに上手くやれるわけはないのだ。

 「失敗したらどうしよう」と行動を躊躇するときがあったら(実際よくあるのだが)、この言葉を思い出してみたい。

 なんの過ちもおかさない人は、何もしない人たちである。

 (2006/04/30)

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