アンケート回答

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現在大学2年生になっている卒業生から手紙が来た。
実際に学校で教育をしている人にインタビューをして、それをもとにレポートを提出する課題が出された、帰省している余裕がないので、同封のアンケートに答えて送ってくれないか、という依頼であった。
その回答をここに残しておこうと思う。自己の記録として。
質問数自体少ないし、時間的な問題もあってそう丁寧に答えたとも言えないが、果たして彼女の役に立ったであろうか。「助かりました」というお礼のメールは来たが……。

          * * *

Q:これまでの指導経験は?
A:21年目(担任を持つことが多く、うち17年は担任をしている)

Q:教師になった理由は?
A:未来に関わる仕事だから。未来があるから社会(世界)は成立する。未来がなくなれば、人間は絶望するか自暴自棄になるか……いずれにしても社会は成り立たないであろう。人間にとって最も大切なものは未来。そして、未来とは子供たちである。そんなことから、子供(の教育)に関わる仕事に就きたいと考えた。
また、自分の関心が人間や芸術にあり、政治経済には全くないので、一般企業には向かないかな、と考えたことも理由である。

Q:教師になって苦労していることは?
A:(苦労というより悩みだが)やらなくてはいけないことが多くなりすぎて、本来一番大切なはずの生徒と接する時間を削らざるを得なくなってしまっていること。忙しいときに生徒から相談を持ちかけられると「迷惑」と思ってしまうことさえある。とにかく多忙である。

Q:教師のやりがいは?
A:(実際にどの程度関与しているのかは不明だが)子供たちの成長に関われること。特に3年間受け持った場合は、「入学したときはあんなに子供っぽかったのに、大人になったな」と実感される。

Q:指導する上で心がけていることは?
A:教科指導では、考えさせること。それ以外では、「選ばせる」こと。ルールだから守る、ではなくて、ルールを守らないで罰を受けることも選択肢として与える。盲目的にルールを遵守するのではなく、考えて決めること、自己が責任を負うことを教えたい。

Q:昔の生徒と今の生徒に違いはあると感じるか。感じたとしたらどのような点か?
A:以前「(家庭が)過保護になって子供が何もできなくなった」と言われた時代があったが、現在は学校自体が過保護になっている。家庭も学校も過保護なので、(親や先生が何でもしてくれるから)自分では何もできない生徒が増えている。指示待ち人間で当たり前、指示されたことができればよし、と考えなければいけなくなった。

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家庭教育を考えよう

(12月20日発行の学年通信に保護者向けに書いた文章)

 いじめが社会問題となった時期でした。
 学校や教育委員会に厳しい批判が集中しましたが、家庭を批判する声(「親は気づかなかったのか」など)がほとんどなかったことに違和感を覚えた方も少なくないでしょう。
 もちろん、家庭に責任がなかったからではありません。家庭に責任を求めても無駄だ、という認識が暗黙の了解になっているからです。
 また、朝食を学校給食にしようという声もあり、実施している学校もあるとか。きちんと食事を食べさせることさえ家庭には期待できないとの判断ゆえでしょう。
 現在それほどまでに家庭の教育力は期待されていないのです。
 これでいいのでしょうか。
          ***
「一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため…」
 賽の河原のお話はご存じでしょうか。
 ……賽の河原では、親より早く死んだ子供が、親孝行できずに死んだ罪を詫びて、「一つ積んでは…」と歌いながら石を積み上げ、仏塔をつくろうとする。ところが、できあがる頃になると鬼が出てきて、その石を蹴散らしてしまう。子供は鬼がくると、お地蔵さんにすがりついて隠れ、鬼が行ってしまうと、出てきてまた石を積む。積んでも積んでも鬼に壊されてしまうのだが、子供はお地蔵さんにかくまってもらいながら、それを延々と繰り返す。……
 いつ頃どのような意図で作られた話なのか詳しくは知りませんが、この話には家庭教育の、あるいは親の、本来のあり方が語られている、という説を目にしたことがあります。
 そうです。お地蔵さんは「親」です。
 子供の行動を何も言わず見守るのが親であり、鬼が来ると逃げ帰ってくる子供を優しく受け入れてくれる場所、それが家庭だということなのでしょう。
 そう言えば、「親」という漢字は「木の上に立って(遠くの子供を)見る」と書く、あるいは、「親」という漢字には「目(見)」はあっても「口」はない……そんな言葉を聞いたことがあります。この漢字の覚え方にも、賽の河原の話からうかがえる親観・家庭観と共通するものがあるように思われるのですが。
 やがて、時代は流れ……。
 お地蔵さんたちは変わり始めました。
 鬼が来たからと逃げ帰って来る子供に「負けるな」「強くなれ」と叱咤し、そのため子供は弱さを見せることができなくなりました。
 あるいは、鬼を追い払ってあげるお地蔵さんが現われ、さらには子供に代わって石を積んであげるお地蔵さんも現われ……。賽の河原は、「最近の子供は……」とつぶやきながら石を積むお地蔵さんだらけになりました、とさ。
 さて、それで子供たちは幸せになったのでしょうか。
          ***
 この文章は、教員の立場としてではなく、一人の「親」として思うところを書かせていただきました。
 家庭に帰れば、私も親の立場です。前述の、家庭の教育力が全く期待されていない現状に、「(家庭を)バカにするな」との思いもあります。
 しかし、では、理想的な家庭教育がなされているか、と問われれば、残念ながら自信を持ってうなずくことはできません。それは皆様も同じだろうと思います(信念に基づいた教育をなさっている保護者もいらっしゃるでしょうが、自己の信念が必ずしも理想的とは限りません)。
 その一因は、「理想的な家庭教育」というのがどのようなものか、不明だからです。ある時代の教育に(それこそ賽の河原の話に)理想を見ることはできるでしょう。しかし、それはもう過去のものなのです。「現代」を生きる我々に「現代の理想」を発見することは極めて困難です。刻々と変化し続けるのが現代ですから。つかんだ瞬間にそれは過去のものになってしまいます。
 でも、考え続けること、求め続けることはできます。
 妥協することなく、諦めることなく、考え続けていきませんか。親は、家庭はどうあるべきなのか。

 (2006/12/22)

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古き良き時代?

 いじめ自殺が社会問題になってから、新聞各紙に、各界著名人等による子どもたちへのメッセージが掲載されている。
 家で購読している福島民報にも「なくせいじめ自殺~君に伝えたいこと」というタイトルで掲載されている。たぶん毎日載っているのだと思うが、最近はマンネリ化を感じて読まないことも多い。
 だが、12月13日の劇作家わかぎゑふさんの文章はあまりに衝撃的(!)だったので、是非紹介したい。

     ***

 いじめや自殺防止には教師や大人の発言が大きく影響する。私も小学生と高校生の時に忘れられない思い出があります。(中略)
 もうひとつは女子高の時。一人の生徒が、体臭がきついといじめに遭った。本人はにおいに気付いていなかったが、ほかの生徒が、頭の上から香水をまいたりした。
 そこで、乗り込んできたのが保健の先生。生徒全員にパンツを脱がせて互いにそのにおいをかがせた。「誰でもにおいはある」と一喝。それでいじめは収まった。勇気のある先生でしたね。

     ***

 感動的な話、とは全く思えなかった。あまりにも衝撃的な指導法に、あるいはそんなことが許された時代があったことに呆然とした、と言ったほうが近い。
 現在なら、別の意味で新聞に載ってしまうだろう。「非常識な先生」、いや「変態教師」と評されるかな。それが「勇気のある先生」と認められるなんて。
 と言うか、ここまでやったら「教師によるいじめ」じゃないのか。お互いにとはいえ、パンツのにおいをかがれたのだから「もう学校に行けない」と不登校になる女子高生はいなかったのだろうか。今なら……絶対数人は学校に来なくなる。いや、それ以前に「パンツを脱げ」と言われても、それに従う生徒自体がいないだろうな。

 古き良き時代の物語……。
 美しい思い出として懐かしく思うにとどめた方がいい。もう一度、なんて考えるとその思い出さえ傷つけることになる。

 (2006/12/14)

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朝食も学校で?

 少しばかり驚いた。

 木曜日の朝自習は、新聞記事を読ませて、その感想を書くという課題内容である。
 先週の課題になったのは、「朝食も学校給食で提供する」ことについて賛成の立場と反対の立場から述べた新聞記事である。

 朝食も給食で、だって? 随分馬鹿なことを考える人がいるんだなぁ……というのが私の感想であった。 多くの生徒も同感だろうと思っていた。

 ところが、提出された感想を読むと、圧倒的に賛成派が多いのである!

 それで、全く予想外の結果に驚くことになったのだ。

 自分の感覚がおかしいのか、生徒たちの感覚がおかしいのか。その判断材料としてネットで関係する記述を探してみた。

 そうしたら……やはり賛成派が多いのである。7対3くらいだろうか。

 社会の感覚からずれているのは自分のほうであった。
 少々のショックもあったが、やはり驚きが大きい。
 日本が、「朝食を学校給食にする」ことに賛同する人が多数を占める国に「なった」こと、あるいはそういう国「であった」のか。それに対する驚きである。

 意外だったと驚いてばかりでも仕方がない。
 とりあえず私の思うところをまとめてみる。

■朝食はそこまでして食べないといけないものなのか

 朝食の重要性は私も十分認識しているつもりだ。実際、保護者を前に「規則正しい生活の確立と、脳のエネルギーを補給して学習に集中できるようにするため、必ず朝食を食べさせて欲しい」と話をしたこともある。
 だから、朝食は「食べた方がよい」のは間違いないと思っている。
 だが、学校給食にしてまで「食べなければいけない」ものなのか。
 朝食を抜いたからって別に死にはしない。
 正直なことを言えば、その人のライフスタイルくらいに考えていい問題だと思っている。
 「健康のため」というなら、現代人の生活はそんなに健康的なものばかりなのか。朝食を抜くより不健康なことをいくつもしているのではないか。

 朝食を学校給食にすることで失われることも確実にある。
 その家庭の文化の継承、登校前の子どもの健康チェック、親子のコミュニケーション等々。朝食はそんな機能も果たしているのだ。
 それらと引き替えにしても「食べ(させ)なければならない」ほどのものなのか。

 「~したほうがよい」と「~しなければならない」の間の距離はとてつもなく遠かったはず。
それがいつの間にか「イコール」で結ばれてしまっている。
 そんな気がする。

■子ども(人間)に必要なものは何なのか

 カラダのことだけを考えるなら、確かに「栄養のバランスのとれた学校給食」は理想的だろう。
 だが、「栄養に(多少)偏りがある(としても)母親の手料理」のほうを子どもは必要としているのではないだろうか。
 たとえ虐待を受けても実の親と一緒にいることを求めてしまうように……。
 そんな、理屈では割り切れないココロを抱えているのが人間である。
 カラダに必要なものだけを考えてココロに必要なものを見失う……そんなことになりはしないか。
 そんな危惧もある。

■学校はどこまで引き受ければいいのか

 家庭の教育力が低下した、という声。それに対応して、本来家庭でやるべきことを学校は引き受けてきた。
 それが必要なことであったのは認めるとしても、学校がやってくれるから、とますます家庭の教育力が低下するという悪循環に陥っていることも否定できないだろう。

 朝食を食べさせない家庭があるから、あるいは、食べさせても栄養に配慮していないから、学校給食で食べさせてしまおう。
 その発想を延長させていくと……。
 夕食も、孤食ではかわいそうだし、みんなで食べた方が社会性を養うことにもなるから学校給食にしてしまおう。家庭だと夜更かししてしまうから、学校で寝泊まりするようにしてしまおう。……。
 そんなことになりかねない。

 行き着くところは、学校が家庭になるしかないのだろうか。

 親は子どもを産んで、後は学校に預けてしまう。そして、気が向いたとき面会に行く、なんて社会になるかも。

 これは笑い話ではない。現在の流れを延長すればそうなるのが自然。

 「学校の家庭化」はもうこのへんで止めようよ!

 (2006/11/17)

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自作教材(自分流解釈)

 授業で使用した自作の教材を紹介していきたい。ご同業の方のご意見などを伺えれば幸いである。

 今回のは短歌の授業の終わりに実施するもの。
 15年くらい前に作成したものだが、引用する生徒作品を替えるくらいで、基本的にそのまま使っている。

     ■ ■ ■ ■ ■

「自分流解釈」にチャレンジ!

 これから授業で短歌を学ぶわけですが、初めに少し考えてみましょう。
 短歌(別に短歌に限ったことではないのですが)を味わう、とはどういうことでしょう? 
 歌の意味がわかればいいのでしょうか? それは「理解」かもしれませんが「味わう」とは違うのではないでしょうか。
 食べ物だって、「味わう」ためには口の中に入れなければなりません。「喉ごし」まで感じるためには飲み込まねばなりません。つまり「味わう」ためには自分の中に入れることが必要なのです。だから、短歌の場合も「その短歌を自分の中に入れてしまう」ことをしてみましょう。それを「自分流解釈」と呼ぶことにします。
 「解釈」とは、辞書によれば「物事やことばの意味をわかりやすく説明すること」です。だから、短歌の場合なら「その短歌の意味をわかりやすく説明すること」になるのですが、意味のわかりにくい短歌ならともかく、誰が読んでもわかることをわざわざ人と同じように「解釈」するのではつまりません。そこで、その短歌を読んで感じたこと、あるいはその短歌に触発されて心に浮かんだ風景やストーリーを自由に書いてみましょう。それが「自分流解釈」です。「自己流…」としないのは、あくまでもとの短歌にそって創造したものであって、勝手気ままに作ったものではないからです。「自己流」ということばには悪い印象があって後者のように取られかねませんから。
 自分の経験と想像によって満足いく「自分流解釈」ができたとき、その短歌を十分に味わい、自分の内に吸収したことになるのです。

 では、具体的にある短歌を例に「自分流解釈」を試みてみましょう。

吾をさらいエンジンかけた八月の朝をあなたは覚えているか(俵万智)

 わかりやすい口語の短歌ですから、歌の意味は一読して理解できますが、あえて「一般的解釈」をしてみると
「私をバイクのタンデムに乗せ、エンジンをかけて私を連れ去った八月の朝。あの朝をあなたは覚えているかしら」
ということになります。そのまんまでつまらないですね。

 さて、「自分流解釈」ならどうか。

「同じような毎日の繰り返しに、夏の太陽の明るさとは反対のやるせない憂鬱を感じていたあの八月。ある朝家を出ると、白いTシャツにGパン姿のあなたがいた。どうして、と問いかける間もなくヘルメットを手渡すあなた。そのまま一言も話さず、行き先さえ知らずに二人はバイクで走った。エンジンの振動がまるで私の鼓動のようだった。あのとき私がしがみついたのは、あなたの背中ではなく、未来だったのかもしれない。ねえ、あなたは二人の未来を決めたあの朝を覚えてる?」

 ちょっと遊びが過ぎたかもしれませんが、「自分流解釈」の「感じ」くらいはわかってもらえたと思います。

 もう少し例を、今度は生徒作品を挙げてみましょう。

いるはずのない君の香にふりむいておりぬふるさと夏の縁日(俵万智)
「金魚すくいや輪投げ、お面……縁日に一人で来るのって、なんて悲しいんだろう。あなたが仕事が忙しいって最近会ってくれないから、私田舎に帰って来ちゃったよ。もうこんな苦しい気持ち、長引かせたくない。だから、ある決心をして。なのに、あなたが好きな紺色の浴衣を着ている私がいる。どうして、と問うまでもない。本当はわかっている。わかっているけど……。
 綿アメを買って帰ろう、そう思って歩き始めたとき、ふわっと後ろからたばこのにおい。あなたに染みついているマルボロの、におい。胸がきゅっと苦しくなった。もう認めるしかないなぁ。あなたに会いたいってこと。少し、悔しい。振り向いた時から、私の負け。」(高1 女子)

さよならに向かって朝がくることの涙の味でオムレツを焼く(俵万智)
「最近私はついてないんです。愛鳥のピーコはどっか行っちゃいました。自転車なくなりました。仕事はクビになりました。そして……恋人もなくしちゃいそうなんです。私に愛想つかしちゃってるんです。今は自分が悪いってわかってるんです。自分でも、自分が嫌いです。だから、私は今日で変わると決心します。恋人ともけじめをつけます。あの人が好きだったオムレツを作りながら……あの人とも今までの自分ともさよならします。あれ、涙が出て来ちゃうよ。」(高1 女子)

 同じ詩や短歌を読んでも、感じ方は人それぞれ違います。「自分流解釈」はいわば「個性的な創造の営み」(!)であると同時に、自分という人間の感性を発見する試みでもあります。面倒だ、なんて言わずにトライしてみましょう。

 (2006/10/14)

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教育は奴隷作り?

 高橋源一郎「一億三千万人のための小説教室」より。

なぜ、教育とか、学校というものがあるのでしょうか。
それは、「1日6時間、みんなで同じ机に向かい、先生が黒板に書いていることを書き写す」というような無意味なことを、我慢できるような人間を作るためです。
ほんとうは、
「そんな、奴隷みたいな、つまらないことはやりたくない」
と思っても、そういう正しいことをいうと、先生たちのイジメに会ったり(それは生徒同士のイジメよりずっと残酷です)、両親の攻撃にあったり(両親は、そういう奴隷生活になれてしまったので、子どもが目覚めるのがこわいのです)するので、そのうち子どもたちは、黙って、何十個も同じような計算問題を時間内に解いたり、コロンビアの首都名だけを覚えたり、というような、無意味なことを我慢してやるようになるのです。

 日本が存続していくためには、国民に税金を払ってもらわなくてはいけない。
 だから、子どもたちには、将来いっぱい税金を払ってくれる良質な労働力になることが要求される。
 そう考えると、学校の機能のひとつが「(企業の、あるいは国の)奴隷作り」であることは否定できない。まあ、子どもたちのほうも働かないと生きていけないわけだから、それが悪いことだとはいえないんだけど。

 それにしても、怖い文章だなあ。ここまで挑発的に書かなくても……と思う私はおそらく「ことなかれ主義」や「日和見主義」の奴隷になってしまっているのかな。

 奴隷にならないと生きていけないのか……それはともかく、奴隷になったほうが生きやすいのは間違いない。会社の奴隷になれば給料をもらえる、常識の奴隷になれば自分で考えなくて済む、等々。
 案外人間は心の底では積極的に奴隷になりたいと思っているのかも。

 (2006/07/17)

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付録を求める

 いい記事を見つけたので、紹介したい。

 「砂の上の足跡」(http://plaza.rakuten.co.jp/likachan55/)というブログの「愛することを見なおそうよ」という記事(2006/06/23)である。

悲しい事件が起きると、私は息子が幼児だったときのことを思いだします。
まだ、ヨチヨチ歩きで、健康に育ってくれればそれで十分幸せでした。
顔を見ているだけで、幸福で、それ以上のオプションはいりませんでした。
育っていくにしたがって、親の欲が出てきて「彼そのもの」以外の付録を求めてしまう、欲深い親でした。
そんな私でも、幼児の時の彼の寝顔を思い出しながら、子育ての原点を振りかえる時があります。
大切なことは幼稚園の砂場から学んだというタイトルの本がありました。親として大切なこともまた、砂場で遊んでいる幼児から学んだことでした。

 我が子はまだ幼稚園だから「彼そのもの以外の付録」をそんなには求めてはいないと思うけれど……。
 それでも我が子と他の子を比べて、優れているところに優越感を覚えたり、遅れているところに焦ったりする自分に気づくことがある。
 他の子と比べるのではなく、ありのままの我が子を受け入れられる親でありたいな、とずっと思ってきたのに。「これがうちの子だぞ~」って大声で言えるような親でありたいと思ってきたのに。

 これから子供が成長するに従って、もっと「付録」を求めてしまうようになるのかな。そんな気がする。
 何て言うか、「付録」を求めない親は「子供に期待しない親」「子供に(教育に)無関心な親」だとする風潮もあるし、それが単なる風潮でなく、確かに真実だと感じられる面もある。だから、「子供に期待しない親」「子供に(教育に)無関心な親」になりたくなくて「付録」を求めてしまう気がするのだ。
 それに全く「付録」を求められないのも子供として寂しくはないだろうか。どうなんだろう?

 ありのままを受け入れるのも愛だし、期待するのも親としての愛だろう。
 結局「子供をどう愛するか」に迷い続けるのが親というものかもしれないなあ。

 同じ記事にあった次の言葉もとても印象的だったので。

愛することは、無限に受け入れることでしょうね。その無限に受け入れることの淋しさに耐えきれず、人は自分を押しつけてしまう。弱いがゆえに「愛することよりも、愛されることを」選択してしまう。

 (2006/07/15)

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スタート地点から見る

 現代は子供が大事にされる時代である。
 子供が少ないというのが最大の理由だろうが、これほど子供に手がかけられている時代はかつてなかったであろう、たぶん。
 でも、同時に、子供がストレスをため込んでいる時代でもあると思う。これも歴史の中で現代が一番じゃないだろうか(根拠はないが)。
 まあ、子供にとって幸せだか不幸だかわからない時代とも言えると思う。

 どうしてこんなに子供にとってストレスの多い時代なのか。

 それは「理想の子供像」が先にあって、その像に近づくことを余儀なくされるからではないだろうか。
 家庭にも学校にも、きちんとしつけ・教育をすれば子供はこうなるはずだという理想像がある。

……朝食をきちんと摂り、元気に学校へ出かける。授業中は真剣に先生の話を聞き、休み時間には寸暇を惜しんで、英単語を覚えたり、読書をする。掃除や係の仕事も手を抜かない。思いやりがあって友だちにも信用されている。放課後は部活動に打ち込み、帰ってきたら息抜き程度のTVは見るけど基本的には勉強勉強……

 そんな「理想の子供像」を想定している。

 きちんとしつけ・教育すれば「理想の子供」になるという考え。それは裏を返せば、そうならないのは親や先生の力量不足ということになる。
 そう考えれば家庭や学校が子供に手をかけるのもわかる。力量不足なんて評価は誰だってごめんだからだ。

 でも、言うまでもなく、いくらしつけや教育を熱心に行ったってそんな子供ばかりになるなんてことはあり得ない。
 それに、そもそも「理想の子供」になることは子供にとって幸せなんだろうか?
 そうも思えない。子供自身と言うより、「親」や「先生」にとって幸せなんじゃないかって気がするのだが。

 以上をまとめる。
 現代の子供たちは、(親や先生の幸せのために)「理想の子供」になること、そのために「頑張る」ことを要求される。
 子供たちも親や先生の期待に応えようと「頑張る」。期待に応えられなきゃ「ダメな子供」になってしまうと思うから。
 それが現代の子供たちにストレスが溜まる理由ではないだろうか。

 この問題に我々大人はどう対応すればいいのか。

 子供を見るために大人が立っている場所を変えることだと思う。そこが間違っていると思うのだ。

 現代の大人たちは前述のように子供を「理想」から見ている。
 理想というのは、言わばゴールだ。そこから見たら誰だってそこに達していないダメな存在になってしまう。
 そうじゃなくて、「現状」や「現実」という、言わばスタート地点から見るべきだと思う。
 そうすれば、ちょっとした前進でも褒めてあげることができるから。

 そして、子供たちを前進させるためには、今子供たちがいる場所を認めてあげることが大切だ。
 「理想の子供像」を基準にして「あなたはここがダメ、そこがダメ」って言うんじゃなくて、ありのままの子供を認めてやることが大事だと思うのだ。「あなたはそのままでいい」と。
 そうすれば子供たちは、ありのままの自分が受け入れられているという安心感や、今のままの自分でいいんだっていう自信を持つことができる。
 そういう安心感や自信があって初めて、「やってみよう」って意欲も出てくるのではないだろうか。
 そういう自発的な意欲の下で行う勉強と、頑張らなくては認められなくなってしまうという、言わば恐怖感の下で行う勉強とを比べてみて、どちらが子供にとって幸せかなんて言うまでもないことだろう。
 もちろん、勉強の効率という点でも。(勉強の効率なんて本来どうでもいいことなのかもしれないが、現代の大人たちがこれに目をつぶることができるとは思えないので一応触れておく。)

 大人たちよ、ゴールから子供たちを見ることはもうやめよう。
 「子供のため」……それは本当に「子供のため」なのだろうか?

 (2006/07/14)

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